校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

6月6日中高等科朝礼

2023.06.06

 6月はみこころの月です。カトリック教会では、今年は6月16日がイエスのみ心の祝日となっています。本校でもその日にミサを予定しています。学校名「聖心」はイエスのみ心を表していますから、この6月を、創立者の大切にしたイエスの心の月として大切に過ごします。今回の朝礼では、イエスの心と考える力の働きについて考えてみました。

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 6月はみこころの月です。聖マグダレナ・ソフィアはイエスのみこころ、温かい心に似ていくことを大切にしていました。それでは今回は、まず、イエスについて考えてみましょう。皆さんはイエスが文字を読めたと思いますか?どうでしょう。イエスの姿を思い起こしてみてください。

 聖書に登場する律法学者や祭司たちは文字が読めました。律法学者は学者として、律法の決まりを学び、よく知っていました。では、イエスはどうだったでしょうか。イエスも文字が読めたでしょう。ルカによる福音書4章に、イエスが安息日に会堂に行き、聖書を朗読する場面があります。預言者イザヤの巻物が手渡され、イエスはそれを開いて、目に留まったところを読んだとあります。ですから、イエスは文字が読めたでしょう。

 とは言え、イエスは2千年前の人ですから、現代のような学校はないし、現代のような知識や情報もありません。しかし、イエスも文字を学び、聖書を読み、自分で考えることを大切にしていました。そして、聖書の中には、イエスが律法学者たちと問答する場面もあります。ということは、イエスは律法学者たちに匹敵するほどの知識を持っていたということになります。

 たとえば、ある律法学者がイエスに向かって「一番重要な掟は何ですか」と聞くと、イエスは適確に答えることができ、律法学者がイエスの答えに感心すると、今度はイエスが自分の答えを正しく受けとめたこの律法学者を正しく評価します(マルコによる福音書12章28~34)。学者もイエスも納得する受け答えだったということでしょう。

 このようなことを考えると、イエスは自分で考えるとことを大切にしていたと思われます。知性の働きを大切にしていました。考える力も神様に頂いたものとして感謝して、最大限使っていたでしょう。律法や聖書のことをよく学び、よく知っていたのでしょう。しかし、律法学者たちとは異なるところもありました。そのために、律法学者たちから感心されることもあれば、反発を招くこともあったかもしれません。その違いとは、イエスの心の温かさでしょう。イエスの中では、考える頭の働き、知性、と心の働きが分裂していず、考える力と温かい心を同時に働かせていたということでしょう。ですから、律法をよく知っていても、それにとらわれて型にはまった考え方になることはなく、温かく、深い心で神様に向き合い、神様を「御父」と呼ぶ、子どものような心の単純さを持ちながらも、律法学者と対等に問答することができたということでしょう。

 イエスのみこころは考える力、知性を支えていましたし、知性が心を支えてもいたでしょう。共感力や感じとる心を働かせながら、じっくり考える。だからこそ、正しく判断できましたし、深く祈ることができました。イエスはそのような深い心の持ち主だったのではないでしょうか。心だけで突っ走っていたのではないでしょう。

 このようなイエスが、もし現代に生きて、科学や技術の発展している様子に接したら、一体どのようなことをおっしゃるのでしょうか。想像してみると、とてもおもしろいです。皆さんはどのように思いますか?

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