校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

10月2日中高等科後期始業式 問いから広がる世界・問いかける勇気

2023.10.02

 中高等科は後期を迎え、始業式を行いました。区切りの時期として、生徒たちは前期の通知表を受け取ります。そして、みこころ祭を控えて、準備にも励む日々です。同時に、12年生から11年生にリーダーシップが引き継がれる時期でもあります。始業式の後には、生徒会3役、もゆる会会長・副会長の選挙に向けた、候補者のスピーチも行われました。

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 今日から後期が始まります。10月になったとは言え、まだ暑さが残りますが、皆で新しい気持ちで始めたいものです。

 今年の秋は、姉妹校でおめでたいことが続きます。小林聖心は今年創立100周年を迎え、聖心女子大学は75周年となり、それぞれ11月に記念式典を予定しています。姉妹校のためにお祝いすると共に、私たちの学校も創立115周年を迎えていますから、聖心の学校として創立者聖マグダレナ・ソフィアの教えを大切にする気持ちを新たにし、今の時代の中でふさわしく聖心の教えを受け継ぎ、これからも続けていきたいと考えます。

 前期の終わりに緒方貞子さんのことをお話ししましたが、緒方貞子さんは聖心女子大学の第一回生でした。聖心女子大学は戦後の最初の新制女子大学の一つでした。女子が正式に大学で学べるようになった時代がやっときたのです。一回生では緒方さんの他に須賀敦子さん、ナミュール・ノートルダム修道会のシスター渡辺和子曽野綾子さん、四回生では曽野綾子さんを始め、すぐれた女性たちが大学での学びを喜んで始めました。そのときに、Be intelligent.  Be independent. Be cooperative. の3つを聖心女子大学で大切に身につけられたのです。Be intelligent. は知性的であることです。私たちが大事にしている「知性を磨く」と重なります。

 聖心では自分でものを考える、人任せでなく、自分で考えることを大切にしてきました。ただ単に知識を増やしたり、試験で良い点数をとったりするのとは違います。自分でものを考える。しっかり、理解し、自分のものとする。自分がすでに知っている他の事柄と関連づけることができる。自分の言葉で表現することができる。人に説明することができる。そして、新たな問いをもって、深めていくことができる。自分の頭で考えるのですから、人の話を鵜呑みにしない。自分の頭で考えるとは、このようなことを意味するでしょう。なんとなく人の話に同意してしまわない、流されない、ということも含まれるでしょう。批判的思考をもつ、多角的に考えるということもあるでしょう。

 自分の頭で考える、自分でものを考える力をもつということは、責任ある人の生き方です。皆さんにはぜひそうなってほしいと願っています。

 お友だちとの関わりの中で、お互いがしっかり考える人として、よい関わりを持つ。うわさに流されない。本当にそうかな、と確かめる習慣のある人になってください。この秋の日々がお友だちと本当に良い関わりを持つ日々となるように努めてください。

 前期の通知表をいただいたら、冷静に前期の学習を振り返り、これからに活かしましょう。通知表に記されていることは数字です。その数字から大事なことを読み取ってください。それは皆さんがどれほど冷静に自分を見つめられるかにかかっています。

 今週はみこころ祭の準備にそれぞれ忙しいでしょう。今年は昨年より以上の多くのお客様をお迎えすることになります。それぞれが忙しさの中でも、責任をしっかり果たしてください。人任せにせず、最後までしっかり責任をもつ。面倒なこと、大変なことの中にやりがいを見つけてください。

 そして、学習にも励むこと。後期はしっかり学んでほしいと願っています。知性を磨く、自分で考えるということを心がけましょう。

 「自分で考える」ということは、問いを出す、問いかけるということでもあるはずです。「問いを出す」ということは自ら踏み込んでいくことです。問いが出せないときは、受け身的な段階に留まっています。それは中途半端な関わり方です。自分の中にある問いを出すことにためらったり、恐れたりせず、問いかけて行ってください。問いの答えをみつけようとして皆さんは考え、問いによって皆さんの世界は広がります。問いは、皆さんが知りたいことと皆さんとの対話でもあるのです。

 今回の聖書朗読の箇所について考えてみましょう(ヨハネによる福音書4章1~15)。イエスがサマリア人の女の人と出会う場面です。サマリア人とは、皆さんも知っているように、イスラエルの人から差別されている人々です。歴史的にイスラエルの人々と別れていってしまった、正しい信仰を持たない人々と捉えられています。この場面では、お昼ごろの暑い時で、弟子達もイエスも疲れています。弟子たちは昼食のために食べ物を買いに行っています。イエスは一人で井戸の所にいて、疲れていて水が飲みたいので、女の人に「水をください」と頼みます。そのときに、女の人は「サマリア人の私に水を汲んでくださいと頼むのですか」とイエスに問いかけます。

 なぜ、この女の人は黙って水をあげなかったのかと不思議にも感じられます。この女の人は心の中に問いをもったとしても、口に出さなくても良かったはずです。わざわざ自分の身分をサマリア人だと明かして、不利な立場に自分をおくようなことをしないでも良かったでしょう。でも、この女の人は、問いをイエスに投げかけます。そして、ここから、イエスとこの女の人との間に対話が始まります。女の人がイエスに問いかけたから、イエスが答えてくれたのです。そして、対話は女の人が思ってもいなかった方向へ進みます。女の人はその場のことがらについてただ「なぜ」と問いかけただけですが、その「なぜ」によって、神さまの関わりにまで話が深まっていきました。目の前の具体的な水の話から、深い話になっていったのです。本当の神さまとは誰か、そして、あなたもそこに招かれていますとイエスは語ります。イエスの語る「水」とは、神さまからいただくいのちです。

 もし、この女の人がただ黙って水を汲むだけだったら、もし、この女の人が何か理由をつけて、自分の中の問いを飲み込んでしまったら、この女の人は自分の人生の大事なことを知ることはできなかったし、神さまとの出会いへと導かれることはできなかったでしょう。今回の朗読では読みませんでしたが、この話には続きがあります。この女の人はイエスから学んだことが本当に大切なことだと理解したので、町の人々のところに行って、自分の聞いたことを人々に告げ知らせる人になっていくのです。

 自分の中の問いを皆さんも大切にしてください。理由をつけて、問いを出すことから逃げたり、ためらったりしないでください。この女の人もイエスの語ることをすぐには理解できませんでした。問いをくり返すことによって少しずつ学んでいきました。

 時として、問いを出すことは勇気がいることかもしれません。問いかけることによって知ったことで、苦しむことがあるかもしれません。しかし、正しい問いは皆さんを正しい方向に導く力をもつものです。「正しい問い」とは、単なる好奇心や軽率さからの問いではなく、本当に知りたいことに向かう問いです。問い自体も経験によって磨かれるものです。ですから、問いの出し方にもたくさん経験を積み、失敗からも学んでください。

 イエスに向かって女の人が問いを出し、イエスがまっすぐにその問いに答えています。イエスは女の人だからとか、サマリア人だからとかの理由に左右されません。前期終業式で朗読された箇所でも、イエスが外国の人だからとか女の人だからとかに左右されなかったのと同じです。イエスはいつも、その人を人として大切にしています。同じように、イエスは皆さんのことも一人ひとり大切にしてくださいます。「〇〇だから」などとイエスは決めつけることがありません。いつでも、まっすぐに私たちを受けとめてくださいます。このイエスの姿も心に留めて、後期の生活を進めましょう。

 

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