校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

12月6日 百合の行列 セカンド・サードステージ

2022.12.06

 12月8日のマリアの無原罪の祝日に先だって、マリアの美しい心を讃えて百合の行列を行いました。セカンドステージとサードステージはそれぞれソフィアバラホールで、ファーストステージは初等科講堂で行います。児童・生徒にとり、一人ひとりが花を捧げるこの行事は心に残るものですが、成長につれて「美しい心」の理解も深まります。特に、大人の女性に向かうサードステージの生徒たちは、低学年の時とは異なる姿勢でこの行事に臨みます。マリアの心は倣うべき理想の姿ですが、特別な存在であるマリアが自分たちとどのような関わりがあるのか、マリアの心の美しさ・清らかさとは何なのかという問いも生じます。今回改めてこの行事を祝う意味を生徒と共に考えました。今回生徒たちに紹介した本は、早川書房から今年出版されたレティシア・コロンバーニ著(齊藤可津子訳)「あなたの教室」です。

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私たちは今日、マリア様の美しい心、清らかな心をお祝いして、ユリや白い花を捧げます。一人ひとりがお捧げしに行列を作っていくのは、誰でも皆が大切な存在であることを感じさせてくれます。

 今日唱える祈りには、自分の「思い、判断、愛をお捧げします」をあります。花をお捧げするときに、この言葉を思い起こして、祈りも一緒にお捧げします。一人ひとり心の底にある祈りをお捧げしましょう。

 百合の行列は、イエスの母としてのマリア様の心が、特別な恵みによって罪から守られた、美しい心ということをお祝いします。マリア様がとてもすばらしい特別な存在だということに深い尊敬の念を表すお祝いでもあります。それでは、マリア様は理想の人で普通の人ではなく、私たちとは違う遠い存在ということなのでしょうか。イエスの母だから、当然、特別なのでしょうか。

 どうでしょうか。マリア様は自分一人だけが美しい心をもった特別な存在であっても、きっと全くうれしいとは感じられないでしょう。たとえば、今の世界には、悲しいこと、苦しいことが数多くあり、美しくないことにあふれています。その中でマリア様は、自分だけがこの世界の悪や罪からかけ離れて清い心の存在でありたいときっと望んでいないでしょう。今の世界では残念ながら、戦争も犯罪も格差も貧困も食料不足も起きていて、世界は未解決の問題でいっぱいです。では、マリア様は今の世界の現実とどのようにかかわっているのでしょうか。

 今回も一冊の本を紹介します。「あなたの教室」という本です。その本の中にはインドに住む少女が登場します。貧しく、親に死に別れ、悲しみからでしょうか、言葉を話すことができません。そして、町の子どもたちも貧しさのために働かなくてはならず、学校に行くことができません。特に女の子は、中学生くらいになると結婚を親が決めてしまいます。インドでは裕福な人、教育を受けられる人と、貧しく教育の機会を得られない人々の格差が大きく広がっていて、人々の考え方は簡単に変わりません。この少女も文字を読むことができません。とても厳しい現実を生きています。

 この本は小説で、物語です。しかし、昔の話ではありません。原作は2021年に書かれたもので、今の社会の現実の一面が描かれているものです。この本に出会って、このような世界に私たちは生きているということに改めて驚き、悲しくさせられました。しかし、この物語では最後の結末で、女の人たちが自分たちのできることはたとえ小さなことでも落胆しないで、できることをしていこうとお互いの深い関わりを築いていきます。貧しい子どもたちのための小さな学校を作っていきます。とは言え、社会の大きなひずみの中で、女の人たちは小さな存在に過ぎず、課題の解決が難しいことには変わりないままです。しかし、あきらめずに生きて行こうとします。

 この女の人たちは聖なる人たちではありません。傷ついていて、悲しみも苦しみも弱さもあり、不完全な人たちです。しかし、大事なものから目をそらさないで生きようとする人たちです。希望をもって生きる人々、希望の作り手になる人々です。

 この本を読み終わって、マリア様はこういう人たちを大切にしてくださるのだと感じました。

 もう少し考えてみましょう。聖書のマタイによる福音書の5章に、8つのほんものの幸せについての有名な箇所があります。「心の貧しい人々は幸いである」から始まり、「〇〇な人々は幸い」と繰り返されます。読んだことがあると思います。山の上でイエスが話されたので、「山上の説教」とも呼ばれています。そこであげられている8つの幸いな人々のうちの一つは「心の清い人々」で、その人たちは「神を見る」とされています。「心が清い人々」とはマリア様です。ですから、マリア様は神様を見ている方ということになります。では、「見る」とはどういうことなのでしょう。神様は目に見える存在でしょうか。そうではありません。しかし、目で見たかのように、心に深く感じ取らせていただくことはできます。そして、理解して、心のうちで自分のものにしていくこともできるでしょう。それは、神様と共にいる、一緒にいるようになっていくことでもあるでしょう。そして、それがとても素晴らしいことなので、自分だけにとどめておかないで、いても立ってもいられずに誰かに伝えたい、分かち合いたいと思うでしょう。

 マリア様はそうでした。今回のルカによる福音書の朗読の場面では、イエスの母となるという天使からのお告げのあと、マリア様はすぐ親戚のエリザベトを訪ねていきます。神様からいただいた恵みを喜び合うためです。マリア様が訪ねていくと、エリザベトはすぐにわかります。二人は神様を大切にする心でつながっていきます。

 マリア様は自分だけ一人で美しい心、清い心を保っている方ではありません。私たちと共にいようとしてくださる方です。私たちみんなが自分の中の心の美しさに気づいて、神さまと共にいることができるように、私たちを励ましてくださる方です。

 だからこそ、今の世界の現実の中に大きな苦しみがあって、私たち一人ひとりの中にも悲しかったり、傷ついていたり、苦しかったりする現実がある中で、私たちはマリア様の美しい心をお祝いします。「心を清く、美しく保つことができますように」とお祈りしますが、それは美しさを保存するような、美しくない現実を遠ざけようとするようなことではありません。いつも、どこでも、どのようなときでも、神さまと共にいる心で、この今の現実を生きられるようにしてくださいということです。マリア様が遠いところにある理想ではなく、エリザベトを訪ねていったように、私たちのところに来てくださる、私たちたちにも心の美しさを分けてくださって、この現実を生きるように心を支えてくださる、そう思ってお祈りしたいと思います。この私たちの現実をマリア様が大切にしてくださいます。

 世界の色々な場で生きている少女や女の人たちとも心を合わせて、マリア様のように神様と共にいる心で生きられるように祈りましょう。

 

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