校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

11月17日サードステージ 聖フィリピン・デュシェーン祝日

2022.11.18

 11月18日は聖フィリピン・デュシェーンの祝日です。それに先だって、セカンドステージでは16日に、サードステージでは17日にそれぞれ聖堂で4学年が集まって、朝礼で祈りを捧げました。ソフィア委員会の生徒、初等科ソフィアもゆるの児童が聖女の生涯をふり返り、祈りを唱えました。久しぶりに4学年で共に祈りました。今回は、今年の夏の教皇フランシスコのカナダへの旅を聖フィリピン・デュシェーンの生涯と合わせて考えてみました。

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 私たちは人の役に立ちたい、とよく考えます。自分のために生きるだけでなく、人のために、役に立ちたいと考えます。これはとても大事なことですが、人の役に立つ、とはどのようなことなのでしょう。聖フィリピン・デュシェーンからそれを学びたいと思います。

 聖フィリピン・デュシェーンはよく祈る人だったと言われています。昼間はよく働いたでしょう。特に若い時は何でもしました。体を使って働くことも、人のために働くことも、学校を創立する仕事もしました。しかし、自分は失敗が多い、ものごとがうまく行かないと自身では思っていました。

 聖フィリピンには目に見える成功は少なかったかもしれません。役に立ったという実感もなかったかもしれません。しかし、聖フィリピンを知る人は、彼女の中にはほんものがあったと感じさせられていたでしょう。それは何だったのでしょうか。

 聖フィリピンは祈る人でした。頭で考えるだけの人ではありませんでした。心で神と共にあり、頭で考えるだけでなく、神と共にある心で生きることを求め、心でものごと選んだでしょう。ものごとがうまく行くかどうか、都合が良いかどうかではなく、神様の大事にしたいことを選ぶことを考えたでしょう。そして、そのように生きようとすると、目に見える世界ではうまく行かない、失敗する、役に立たない、人々の目をひくものとはならないことになるのかもしれません。

 聖フィリピンが手にしたものは、役に立つ、目に見える成果ではなかったもしれません。しかし、神様の目から見たら、本当に価値のあることだったかもしれません。

 このことを今年、深く考えさせられる出来事がありました。それは教皇フランシスコのカナダへの旅行です。この夏教皇フランシスコはカナダへ、先住民の人々に謝罪するために旅をしました。その旅において、カトリック教会は歴史の中で先住民に対して非常に不当な対応をしたことについて先住民に謝罪しました。先住民の文化を認めず、伝統的な生活を奪い、信仰や教育を押し付けたということです。教会が単独でこれをしたのではなくても、社会の流れに同調し、虐待にも加担したことがあったとされています。これは自分たちの文化を優越したものと考え、一方的に押し付けたことによると考えられます。教皇はこのことについてインディアンに謝罪しました。大変な旅でした。教皇フランシスコにとっては、自分自身がしたことではありません。しかし、このことを放置することはできませんでした。気づいたからには責任をとるべきと考えたのです。教会の過ちを認める苦しい旅でした。しかし、インディアンの代表者との出会いの姿は心を打たれるものでした。

  教会の過ちは、目に見えるものに注目して、頭で考えた都合や結果だけを求めてしまったことによるのではないかと考えられます。一つの価値観で進歩や発展と考えられたものを押しつけたことは、頭で考えたこと、合理的なことの追求だったのではないでしょうか。心を大切にしなかったのです。自分たちの心も、インディアンの心も。インディアンと生活を共にするということをしませんでした。

 聖フィリピンはどうだったでしょうか。聖フィリピンがポトワトミ族に会いにいったシュガークリークには、今、何も残されていません。記念碑だけがある、発展から取り残され、忘れられた土地となっているかのようです。その地へと、ポトワトミ族は元々住んでいた土地を奪われて、土地を追われ長い、苦しい旅をしました。何もかも奪われてシュガークリークにいたところへ、聖フィリピンが訪ねていきました。  

 聖フィリピンは祈る以外に何もできなませんでしたが、祈る姿は人々の心に非常に強く残りました。目に見えて、役に立つことはしませんでした。しかし、教皇フランシスコの謝罪の旅を経て、聖フィリピンが祈りの他は何もできず、ただ人々と共にいて、祈りを通して心を共にしていたことに大きな意味があったと、新たに気づかされます。

 今から考えると、聖フィリピンは何もできないと思っていましたが、一番大事なことをしたのだとも言えます。見捨てられた人々と共にいること、その人々と神様と共にいようすること。それが、聖フィリピンが為したことだったのではないでしょうか。

 役に立つとはどのようなことなのでしょう。役に立つ、とは相手のためになること、相手を大切にすることではないのでしょうか。本当に相手を大切にするとは、どのようなことなのでしょうか。頭で考えることは大切です。人任せでなく、自分で考えなくては、正しいことはみつかりません。しかし、頭で考えたことだけでは、大事なものを見失うこともあるのではないでしょうか。世の中の価値やものの見方からすれば、意味が見えづらいことの中に大事なことが隠れているのかもしれません。

 聖フィリピン・デュシェーンが教えてくれることは何なのか、考え、祈り、これからの日々心にとめていきましょう。

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