校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

6月15日初等科朝礼  

2022.06.18

 初等科では17日金曜日にみこころの祝日行事を行います。ミサと音楽会、奉仕活動としてカードの作成を行う予定です。そこで、イエスのみこころを表す聖書箇所の一つ、ルカによる福音書15章の「見失った羊のたとえ」を朝礼で取り上げました。カトリック教会で、今年のみこころの祝日のミサでの福音朗読で読まれる箇所です。この日の児童の祈りには、見かけを装わず、自分のありのままを大切にしたいという思いがありました。その響きの中で話を進めました。

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 もうすぐみこころの祝日を迎えます。イエスのみこころについて考えてみましょう。

 皆さんのクラスには、ファーストステージなら32人くらい、セカンドステージなら40人くらいの人がいます。一人ひとりちがっていて、色々な考え、気持ちの人がいるでしょう。一つの心になるのはむずかしいかもしれません。先週、イエスはたくさんの人の話を聞いていました、とお話ししました。イエスの周りには、色々な人が話を聞いてもらいたいと思って集まっていました。

 イエスのところに一番先に来て話したい人もいれば、話したくてもなかなか近づけない人もいたかもしれません。はずかしいとか、周りに他の人がたくさんいると行きづらいとか感じる人もいたでしょう。こんなこと話しても、聞いてもらえないかもしれない、こんな話ははずかしい、こんな話をしたら怒られるかもしれない、心配だ、こんな話はこわくて言えない、このように感じていた人たちもいたかもしれません。でも、イエスは誰の話でもじっと聞いてくれたでしょう。たくさんの人の話を聞くのは、とても長い時間がかかったでしょう。

 もしかすると、一番困っている人が一番最後に来たかもしれません。

 イエスの考えは、一人ひとり、誰でも大切、誰の話も全部大切ということでした。この一番最後に来た人の話も、イエスは大切に聞いてくれたでしょう。最後の一人まで、イエスは皆を大切にしたいと思っていました。

 聖書の中に「見失われた羊」の話があります。100匹の羊をもっている羊飼いがいて、99匹はここにいて安全ですが、1匹がみつかりません。さあ、どうしましょう、というお話です。みつからない羊がいるのは困った話です。全体にとって迷惑な1匹です。100匹のうち99匹はいるのだから、1匹くらいどうでも良いのでは、と考える人がいるかもしれませんが、この羊飼いはこの1匹を見つかるまで探します。最後の一匹まで大切にしました。これがイエスの考えです。

 さて、このお話を人間の心の中のこととして、今日は考えてみます。私たちの心の中には色々な部分があります。自分の心の中には、良いなあ、好きだなあと思える部分もあれば、好きでない、嫌な部分もあるかもしれません。これはもしかしたら、隠しておきたい、見せないでおきたい、と思う部分があるかもしれません。でも、それが、もしかしたら、一番困っていて、自分でも大変だと感じている部分かもしれません。とてもはずかしいと感じているかもしれません。しかし、本当は、それがイエスに一番助けてほしいところかもしれません。

 イエスは羊の最後の一匹まで大切にしてくださいます。だから、私たちの心の中の良い所だけでなく、見失われた一匹の羊のように、私たちの中の隠しておきたい、困っている所を、イエスはきっととても大切にしてくださるのではないでしょうか。

 イエスの前では、私たちは自分が良いところだけであるかのように演じなくてよいのです。困っているところを隠したり、見かけをよくしたりする必要はないのです。

 イエスは私たちのありのままを大切にしてくださいます。私たちの心の中の困っているところや良くないところも大切にしてくださいます。私たちもイエスに話を聞いていただきましょう。イエスが私たちの心の全部を大切にしてくださることを思って、正直な人になっていきましょう。イエスは何でも聞いてくださいます。

 

 

 

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