校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

6月14日中高等科朝礼  無関心のパンデミック  無知のもたらす残酷さ

2022.06.14

 当番の生徒たちの朝の祈りが、思いがけず朝礼の話と響き合うことがあります。今回もルカの福音書6章27節から「赦す」ことを取り上げ、そこから私たちが自分のことだけしか考えず、人とかかわろうとしていないのではないかとふり返り、人のお互い同士の深い関わりへと神が私たちを招かれていることを祈りました。その余韻の中、無関心や無知がもたらしてしまう残酷さについて話しました。

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 教皇フランシスコの言葉には、心に残るものがたくさんあります。今年度の私たちの学校の目標「私から私たちへ」も教皇フランシスコの言葉からとらせていただきました。最近出遭った言葉は「無関心のパンデミック」です。新型コロナウイルスの発生以来、「パンデミック」はよく接する言葉となりました。パンデミックとは感染症の大流行のことを指し、広く広がる危険であり、脅威であって、多くの人のいのちに関わりますから、放置しておくはずはなく、緊急に対応すべきものとしてとらえられます。では、無関心のパンデミックではどうでしょうか。無関心は、関心を持とうとしない、知ろうとしないという姿勢です。これがパンデミックのように世界に広がっている、大変危険な状態だとフランシスコは言っています。どうなのでしょうか。本当にそうなのでしょうか。

 確かに、世界全体を見ると、紛争や対立、戦争、難民問題、食糧不足など様々な課題があり、苦しむ人々がいます。それらを私たちは知ろうとしているでしょうか。あるいは、知ろうとせず、無関心になっているでしょうか。自分や自分たちの安心や安全が第一となって、他の人々のこと、地球上の他の生物のことについて、無関心になってしまっているでしょうか。地球の一員として仲間であるなら、「私から私たちへ」の思いで無関心ではいられないはずです。それなのに、と教皇フランシスコは「無関心のパンデミック」と言って警鐘を鳴らしています。パンデミックと言っても、無関心のパンデミックは目に見える現象ではなく、症状があるわけでもありません。しかし、むしろ、だからこそ、取り返しがつかないことになってしまうかもしれません。

 無関心のほかに、もう一つ無知、知らない、というものがあります。無知、ということも大変厳しいことです。さて、先週はゲームの心配についてお話ししました。ゲームの中の戦闘や死の場面に慣れてしまうことがあるのではないか、ゲームの現実の区別がつかなくなることもあるのではないかという心配でした。これについて、無知と関連して思い出したことについてお話しします。学校時代のできごとで、一つの苦しい記憶を分かち合います。

 あるイベントについて皆で計画しました。自由に考えて良い機会でしたので、色々なアイディアが出されて、友だちのあるアイディアを採用しました。それはとてもおもしろくて、大変受けました。大きな拍手を得ることができました。

 しかし、実は私はよくわかっていませんでした。皆の熱気に飲み込まれておもしろがっていましたが、その時の面白さはとても人を傷つける言葉を含んでいました。そう言えば、何か変な感じがしたし、何か苦しいものがありました。皆で面白がってしまったことの意味を知ったのは、後になってからのことでした。これはずっと以前のできごとです。その時代の鈍感さというものがあったかもしれません。その時、多くの人が気づいていなかった、知らなかった。多くの人が問題にしていなかった。だから、多くの人ががまんしていたのかもしれません。

 知らなかったので、面白がって、同調していました。では、もし知っていたら、「ねえ、それ、やめようよ」と私は言えたかどうか。あるいは、もしそのときすぐに知ろうとしていたら、何かできたことがあったのかどうか。ふり返って、無知というものの残酷さを深く感じています。

 私たちはすべてをいつも知り尽くすことはできません。しかし、「知らない」ということが人を傷つけることもあり得ることを忘れてはなりません。「知らない」と気づいたら、「何か変だ」と気づいたら、そのままにしない。無関心、無知に飲み込まれないために大切にしたいことです。無関心のパンデミック、無知ということ、皆さんはどう思いますか?

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