校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

6月1日初等科朝礼 イエスのみこころは子どもらしい心

2022.06.01

 今週は5年生が講堂に集まり、他の学年には動画配信を行いました。6月はみこころの月。児童の祈りにもみこころへの思いが表されていました。児童と共に考えました。上の画像は児童が運動会のために作成した聖心のロゴの一部です。

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 6月はみこころの月です。イエスのみこころを大切にして、プラクティスも続けます。耳を傾けて、心をつないで、平和へと向かいます。私たちの学校の名前「聖心」もイエスのみこころですから、イエスのみこころは当たり前のことですが、改めて考えてみましょう。イエスのみこころはどのような心でしょうか。毎年考えてみても、発見があります。

 聖書の中で、イエスのみこころについて書いてあるのは3カ所くらいだけです。大事なことなのに、なぜそれだけなのでしょうか。聖書にはイエスの話したことや行いが書いてあります。イエスの言葉や行動の全部がイエスのみこころを表しているので、イエスのみこころはこれ!と書いてなくても、イエスの全体がイエスのみこころを表しているからでしょう。それでも、やはり、イエスのみこころについて書いてある聖書の3つの箇所は大切です。今回はそのうちの2つだけお話しします。

 1つ目はイエスが自分の心を説明している箇所です(マタイによる福音書11章29節)。自分で説明しているのですから大事です。イエスは「私は柔和で謙遜」と言っています。柔和とはどういうことでしょう。まず、柔らかいということです。柔らかいので、自由に形が変えられます。それで自分のところに来た色々なものを受けとめることができます。固かったら、形が合わないと、受け入れられないことになりますが、イエスは来たものをはね返したしはしません。

 謙遜ということは「えばらない」ということです。自分が一番と思っていません。人に命令したり、決めつけたり、怖くものを言ったりしないで、色々な人の良いところをみつけて大切にします。人の話を聴いて、いつでも色々な人から教えてもらいたい、と考えています。ということは、人の話を聴いて、人とつながるということです。

 2つ目の聖書の箇所は、イエスが十字架の上で死ぬときの姿です(ヨハネによる福音書20章34節)。十字架の上での死はとても苦しい、残酷な姿です。なぜ?という辛さと厳しさです。イエスは何も持っていない、裸の姿をしています。何もかも全部取られてしまいました。馬鹿にされたり、裏切られたりしました。ちゃんと話を聴いてもらえなかったし、受けとめてもらえませんでした。だから、十字架の上の姿は、全部人にあげてしまう、何も自分のためにとっておかない姿です。全部を人のために「どうぞ」とあげてしまって、自分としては空っぽです。とても不思議なことです。

 イエスの心はいったいどのような心なのでしょうか。イエスは私の言っていることがわかる人は、子どものような人と言っています(マタイによる福音書11章25節)。では、子どものような人とは、どのような人なのでしょうか。

 皆さんは今、子どもです。でも、段々大きくなります。では、イエスのことがわかるのは今だけなのでしょうか。人間は成長します。赤ちゃんから、子ども、お姉さんになり、大人の女の人、おばさん、おばあさんとなって行きます。私は今、おばさんで、おばあさんにも近いです。子どもから段々遠くなって、イエスのことわからなくなっていくのでしょうか。

 子どもはどんな存在でしょう。赤ちゃんはとてもかわいいです。しかし、時々「赤ちゃんでは困ります。もっとお姉さんになってください」と言われることがありませんか?赤ちゃんは自分では何もできません。時々、人の話を聞けなかったり、約束を守れなかったりすると、子どもっぽいと言ったりします。子どもっぽい、という言葉はあまりよくないときに使いませんか?

 私には尊敬する一人の先生がいます。その先生は子どもの本の専門家です。その先生が教えてくださったことは、大人になっても子どもの心を忘れてはいけません、ということです。子どもの心を大切にしていました。そして、「子どもらしい」という言葉を教えてくださいました。「子どもらしい」という言葉は「子どもっぽい」という言葉と意味がちがいます。「子どもっぽい」というときは、かわいいかもしれないけれど、わがままで、自分のことだけ考えていて、何でも人にやってもらうだけです。しかし、「子どもらしい」というときは、好奇心がいっぱいで、色々なことを知りたい、学びたい、教えてほしい、と思っています。だれか人と一緒にやりましょう、という気持ちで、人とつながります。

 そうすると、子どもらしい子どもはきっとイエスの心がわかる子どもです。お話を聴いて、学ぶことができ、色々なひとに「どうぞ」と言うことができる子どもです。人の話を聴いて、ひととつながることができます。このことを考えて、子どもらしい心になって、イエスのみこころを大切にしていきましょう。プラクティスにつながります。

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