校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

4月22日中高等科 始業の祈り

2022.04.22

 今年度は始業の祈りを2学年ずつ聖堂に集まり、朝礼時に行いました。以前は6学年集まって始業ミサを行っていましたが、それに代わるものとして今回実施しました。それぞれの学年が今年度に向けた意気込みを祈り、学年をスタートさせました。イースターの時期にあたり、生徒たちと共に今年度の学校目標と合わせて話をしました。上の画像はウクライナのイースターエッグ「ピーサンカ」です。

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 久しぶりに聖堂に集まって祈りを捧げます。始業ミサの代わりの学年始めの祈りですから、新学年の心構えを大切に祈り、神様にクラス、学年を見守っていただきましょう。

 17日の日曜日はイエスのご復活の祝日でした。だから、おめでとうございます!でも、なぜ?何がめでたいのでしょうか。世界の情勢を考えると、めでたいと言いづらい気持ちです。世界の人々もそうなのでしょう。ローマにいる聖心会のシスターが、今年は人々は "Happy Easter!" ではなく "Blessed Easter!" と言っていると教えてくれました。

 今回朗読されたルカによる福音書24章の復活の場面では、女性たちがイエスの墓に行って、イエスの墓が空だと知ります。イエスの復活を最初に知るのが女性たちであることは、とてもうれしく感じられます。しかし、この女性たちも始めは何がなんだかわからなかったでしょう。それでも、神の使いに言われて「イエスは死んでいない」と悟ります。今も共にいてくださる、復活されたと感じ、走って弟子たちにこのことを告げに行きます。

 ここで起こったことは何なのでしょう。女性たちはイエスが自分たちを見捨てなかったと感じ、イエスは打ち負かされたのでないと気づいたのでしょう。イエスが十字架にかかる場面はとても残酷で、理不尽で、暴力に満ち、裏切りもあります。そして、その悲惨な出来事にイエスはあらがうことなく、死んでいきました。イエスは何か不思議なパワーを発揮して、人々を打ち負かすということもしませんでした。しかし、今、十字架の上で死んだはずのイエスが死んではいない、と何か深く感じたのでしょう。

 聖書には「天の使い」が現れたと書かれています。「天の使い」というと天使のイメージを色々と思い浮かべますが、何らかの神様からの働きかけを心に感じたということでしょう。そして、それまではわからなかったイエスの言葉を深く実感したのでしょう。イエスの言っていたことは本当だった。イエスが神様について言っていたことも本当だ。イエスは負けたのではない。人々はイエスに対してとてもひどいことをしたにもかかわらず、イエスは人間を見捨てたのではない。

 これはとても重要なことです。イエスは共にいてくれる。私たちの現実と共にいてくれる。十字架の死というとても悲惨な現実を味わい、しかも、それに負けず、通り越して下さった、ということです。

 出来事として、表面上は何も変わっていません。世の中の悪は解消されていません。しかし、イエスはこの現実と共にいてくださる。神様も共にいてくださる。これは、神様が「私から私たちへ」となってくださっているということです。

 それなら、私たちはどうしたら良いのか、という考えが続きます。イエスの言葉を信じて、やってみよう、私たちも「私から私たちへ」を生きようと動いていきます。

 イエスの復活は、この出来事以来伝え続けられてきています。

 ウクライナの人々はどのような気持ちでこのご復活を迎えたのでしょうか。イエスは苦しい現実から逃げなかった、人々を見捨てなかった、だから今も私たちを見捨てることはない、私たちと共にいてくださる、この苦しい現実の中でも「私から私たちへ」を生きていてくださる。そのように感じているでしょうか。ウクライナだけでなく、私たちも各々苦しさや悲しさを抱えています。その現実と共にいてくださる神様です。

 イエスの復活はイースターの時だけではなく、1年中変わらない真実です。イースターの祝日はそれを確認する時です。私たち一人ひとりとイエスは共にいてくださいます。それをお互いに「おめでとう」と言うのです。

 イエスと共にある心でこれからこの1年を過ごしていきましょう。

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