校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

4月10日 枝の主日  今ここに共にいてくださる神に耳を傾けて聞く

2022.04.11

 カトリック教会では4月10日に枝の主日を祝い、17日の復活の主日に向かう聖週間に入りました。枝の主日はイエスのエルサレムへの入城を記念するもので、イエスが人々に歓迎された喜ばしい出来事を聖書の記述に基づいて思い起こし、緑の枝を用意して祝います。日本の教会ではソテツの葉が多く用いられ、典礼の始めに枝をもって参列し、司祭の祝福を受けます。教会によっては枝を手に行列を行います。

 この日の朗読ではイエスの受難の場面が取り上げられ、イエスの裁きと十字架の場面が朗読劇のように役割を分けて読まれます。イエスの言葉を読む司祭、語り手と主な登場人物の言葉を読む人、民衆の言葉を読むその他の参列者、と全員が朗読に参加します。民衆の言葉はイエスに対する無理解を表し、イエスを殺して十字架につけるよう要求します。毎年、群衆の言葉を読むのは辛いものですが、私たちの心の中に潜む現実でもあるかもしれません。

 ウクライナで戦争が続くいま、神様はどこにいらっしゃるのだろうか、この状況でも何もしてくださらないのかと考えたくなるときがあります。「戦争は人間の仕業です」と教皇ヨハネ・パウロII世が語られたように、人間が始めたことは人間が終わらせなければなりません。しかし、悲惨な状況が報じられるたびに、神様はどこにいらっしゃるかと問いかけたくなります。

 今回の枝の主日の福音朗読はルカによる福音書から読まれました。権力者も民衆もイエスを受け入れようとはせず、イエスを拒み、十字架にかけようとします。場面は暴力に満ち、混乱しています。神様の姿は見えず、イエスも全く無力です。神様は働かれないかのようです。しかし、この中で、一人だけイエスの言葉を受け入れ、イエスに従おうとした人がいました。それはイエスと一緒に十字架につけられようとしていた罪人のうちの一人でした。イエスの姿を見て、イエスを理解し、イエスに語りかけます。十字架につけられているもう一人の罪人がイエスをののしったのに対し、「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、イエスに対して「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願っています。

 この罪人は私たちに教えてくれます。イエスがいらっしゃらないのではない、語っておられないのではない。人々は自分の思いにとらわれて、イエスの存在に気づかないだけです。どれほど混乱し悲惨な状況でも、見たい、聞きたいと願う開かれた心のある人にはイエスの姿が見え、イエスの声が聞こえます。混乱し悲惨な状況の中にもイエスは存在し、語っておられます。その言葉に気づき、耳を傾ければ聞こえます。それはきっと今のこの世界でも同じです。聞こうとするかどうか、私たちに任されています。イエスが何を語っておられるか、聞き取らなければなりません。今、私たちに語っておられることに耳を傾けましょう。

 

 

このページのトップへ
このページのトップへ