校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

3月18日 中高等科終業式

2021.03.20

 中高等科では7年生から11年生が学年末を迎え、終業式を行いました。今回も各クラスへのZoom配信による形式となりました。各クラスで落ち着いて参加することができました。退職される先生方の発表も行い、先生方からの一言もいただきました。休校期間中に始めた今学年を無事に終えることができたことに深く感謝しています。

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 今学年の最後の日を迎えました。昨年の学年末は全国の学校が休校となり、先が見えない中での慌ただしいものでした。それから1年たちました。今も緊急事態宣言が続いていますが、それでも去年はできなかった学年末のことがらが今年は実施できること、たとえば、来年度の教科書配布一つをとっても、それが今年はできるということがとてもありがたいことと感じられ、落ち着いて学年末を過ごし、4月からの準備ができるということがとても貴重なことと感じられます。まず何よりこの1年間、皆で健康で過ごせたことを感謝したいと思います。感染防止対策をしながら、新しい学校生活を維持することに皆で努力してきた結果です。一人ひとりの意識が全体を守る、ということを実行することができました。皆さんはよく頑張りました。支えてくださったご家族に感謝しましょう。

 今年度をふり返ると、中止となった行事もあり、十分な活動ができなかった面もありますが、逆に予測もしていなかった新しさやおもしろさのある実り多い経験をすることもできました。皆さんのこの1年の姿を思い浮かべてみると、学校生活を大切にする思いや、限られた条件の下でできる限りのことを一生懸命に取り組む姿勢、創意工夫して新しいものを生み出していく力など、色々なことが心に浮かびます。皆さんについて様々な発見がありました。

 10月のオンラインみこころ祭は皆さんの力の一つの新たな姿でした。「女子校でも、こんなことができる」と誇りに感じたことを思い出します。皆さんのパワーと私たちの学校の底力を強く感じた時でした。この3月の卒業生の一人が女子校としての私たちの学校の意義について書いてくれた文章があります。とてもパワフルな文章でしたので、ここで読んでみることにします。

 「女子校で育ち、女子だからという理由での不自由さはなく、がまんを強いられることもなく、生き生きと生活することができた。このような生活を送ると、社会に出たときにそれまで体験してこなかった理不尽さに遭遇して辛いのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、女子校は、女子だけを集めて、女子を守っている学校ではない。むしろ、女子による問題発見・問題解決を繰り返し、世間では『男子がやること』と思われているような仕事も協働して行うことで、誰とも対等な存在として生き抜いていく、芯の強さを磨ける場所である。これを在校中に続けることにより、女性自身の中にも少なからず存在し、甘えてしまっている、『女性だから許される』『女性だからできなくても仕方がない』という意識は薄まり、自発的な行動力が高まる」と書いています。そして、聖心女子学院の教育にこのような視点があるのは、創立者聖マグダレナ・ソフィアがもたらした伝統だと感じ、それを受け継ぐことに誇りを感じています。とてもたのもしい言葉だと感じていますが、皆さんはどう思うでしょうか?私たちの学校についての一つのとてもポジティブな見方です。特に、世間の枠組みに縛られず、一人ひとりが自分として自分のできることにチャレンジする、そのようにして誰とも対等に、自分として関わる経験をしていくという部分が大事なものに感じられます。

 今年、新型コロナウイルスという新しい経験をする中で、皆さんは一人ひとり自分の新たな力を発揮することができました。それは学校の仲間のパワーに支えられてのことです。私たちの学校のもつ力について自信を持ちましょう。今学年は皆さんがそれぞれ日々の学習に努力したことに加え、新型コロナウイルスという特別な体験が重なって、皆さんの記憶にずっと残っていくことになるでしょう。地球のあらゆるいのちはつながっていて、人間もその一員であるということも大事な学びの一つでした。このことも見失いたくないものです。

 そして、「希望の作り手になる」を今年度の目標としてこの1年を過ごしてきました。皆さんは「希望」というものをどのように捉えているでしょうか。

 今回の聖書朗読は旧約聖書の「哀歌」からの言葉でした。「哀歌」の「哀」は悲哀の哀、哀歌は悲しい歌という意味です。「哀歌」は、イスラエルの人々が外国の勢力によって、国を滅ぼされ、大変な苦しい状況にある中で、神に向かって泣き叫んだ祈りが書き綴られている書です。あまり読まれることのない書ですが、読んでみるとそこに描かれている苛烈な苦しみの姿に驚かされます。しかし、その苦しみのさ中で神さまに深い信頼をもって、「主の慈しみは決して絶えない、主の憐れみは決してつきない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分、とわたしの魂は言い、私は主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に主は再々をお与えになる。」と語っています。私は皆さんにこの言葉を今年度の終わりに差し上げたいと思いました。希望の作り手になるためには、自分の中に希望のよりどころがなくてはなりません。この哀歌の作者は、神さまを信じることによって希望を語っています。目にする現実は非常に厳しいものですが、そこから目をそらさず、しかし、今の現実だけが全てではない、神さまの愛の力がここには必ずあると語っています。この言葉は、今の世界を生きる私たちに希望のメッセージを伝えてくれています。今この時を辛くても大切に生きること、神さまが共にいてくださると信頼して進むこと、このことを教えてくれる言葉です。ものごとが非常に厳しい状況に陥ることが現実にはあります。しかし、それで終わりなのではない。苦しみに直面していくなら、必ず開かれるものがある、それを伝えてくれています。聖書を開いて、この力強い希望の言葉を読んでみてください。哀歌の3章22節からの部分です。

 ほんものの希望は誰かから与えられるものではなく、安易に見つかるものではありません。しかし、希望は確かにあります。それは苦しい現実を本気で生きた人がみつけるものかもしれません。学年の終わりにあたり、皆さんはそれぞれ自分の課題となる事柄も感じているはずです。それに逃げずにしっかり向き合うときに、必ず希望はみつかります。そして、その希望を大切にして生活していると、必ずその希望は人に伝わります。すぐにうまく行かなくても、希望を心にもって歩んでいくことが、希望の作り手となっていくことです。

 この1年間の毎日を感謝し、しめくくりましょう。今日で最後になる同じクラスの方々にお互いに感謝しましょう。春休みの間には振り返りの時間も新たにもってください。くれぐれも健康ですごし、新学年を迎えましょう。帰るときには、どうぞ校庭の桜にも注目してください。学校の正門脇の桜はもう咲き始めています。地球温暖化のためにだんだんと桜の開花が早まっているとしたら心配なことですが、昨年は春の美しい花々を生徒の皆さんが見ることなく終わってしまったことを考えると、皆さんが花々を目にすることができることはむしろ望ましく感じられるほどです。桜の花を眺めて春の美しさに感謝しながら、今学年を終えてください。皆さんの春休みに神さまの恵みを祈ります。  

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