校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

2月17日 灰の水曜日

2021.02.20

 2月17日は、カトリック教会では四旬節の始まりを告げる「灰の水曜日」でした。灰をいただく式を学校でも行います。例年は、信徒の児童・生徒に加えて希望者は誰でも聖堂に集まって、祈りの心で灰を額にいただきます。今年は感染防止を配慮して、信徒の児童・生徒のみが沈黙のうちに、ほんの少しずつ頭に灰を振りかける形でいただきました。初等科は17日に、中高等科は翌日の18日に、それぞれ朝礼で話しました。

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 灰の水曜日は四旬節の始めの日です。四旬節は、今年は4月4日の日曜日に迎える主のご復活・イースターまでのこれからの40日間を、イエスの生き方とことばをじっくり味わう時として過ごすときです。灰の水曜日には、前の年の枝の主日に教会でいただいた枝を大切にとっておき、それをていねいに燃やして灰にしたものを額にいただきます。

 私たちの生活では灰を見ることはほとんどありません。火を燃やすこともあまりありません。台所でお料理のためにガスを使っても、気体を燃やすので、炎が出て熱くなっても、後には何も残りません。たき火をすると、灰が残ります。紙を燃やすとカサカサの灰になります。昔の家では、薪や炭を使ってお料理をしたり、暖炉で部屋を暖めたりしていたので、灰はどこにでも普通にありました。灰は役に立ったものの終わりの姿です。何にでも終わりがあることを灰は教えてくれます。人間も同じです。人間も創られたものとして、他のものと同じように終わりがあります。

 今の私たちは日頃灰に接することがないので、灰の水曜日に灰をいただくと、とても特別なものに感じます。そして、昔の人も、灰の水曜日に教会での式の中で灰をいただくと、灰にはいつも接しているのに特別なものに感じたかもしれません。私も、神さまに創られたもので、終わりのときがある。このように感じたのではないでしょうか。

 灰は同じものでも、その前までとは違う新しい姿です。もろもろと崩れて土と混ざってしまうことでは、灰ははかないものですが、終わりの先に何か新しいものになる、という期待や希望も示してくれます。そして、終わりがあるから今が大事であるということも示してくれます。

  教皇フランシスコは今年も灰の水曜日に先立ってメッセージを出されました。とても心に残るメッセージです。紹介してみましょう。キリスト教の教えで大事なことには、信じること、希望すること、愛することの3つがありますが、この四旬節にこれらの3つを毎日の生活の中で生きるようにと呼びかけています。そして、この3つは、それぞれ父と子と聖霊の三位一体の体験になるとしています。

 信じることは、イエスと共に生きることです。イエスの言葉と生き方を素直に受けとめて、真似ていくことです。イエスは神さまが赦してくださる方であることを教え、ご自分の生き方でそれを示してくださいました。それを知って、自分も赦されていると感じ、「私」も赦しを広めていくように生きることができます。たとえば、誰か人の話に耳を傾け、しっかり聞くと、それが人に希望を与える力にもなるでしょう。これは聖霊の働きを受けることです。希望は祈りの中で、ひらめきとして与えられたり、心の光としてみつけたりすることができるでしょう。そして、愛することは人を大切にすることです。人と共に生きること、誰か困っている人がいたら、そのままにしておかないことです。そのときに、私たちは御父の深く温かい心とつながっています。

 四旬節を生きることが、父と子と聖霊に働きにあずかることになる、ということはとても素敵な考え方です。四旬節のあいだ、イエスの教えと生き方を学び、聖霊に働きを受けて、神さまの深い心から温かさをいただいて、周りの人を大切に共に生きていきましょう。特に私たちは「希望の作り手になる」ことを目指しています。聖霊の恵みをいただいて、希望をみつけ、つくり出し、人に伝えることを心がけていきましょう。

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