校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

12月25日 クリスマスおめでとうございます

2020.12.25

 クリスマスおめでとうございます。

 静かなクリスマスとなりました。例年なら24日の夜、25日の朝には学院聖堂においてミサを行い、在校生や保護者、卒業生もお迎えして、静けさの中にもにぎやかにクリスマスを迎えていたところです。昨晩はひっそりとして真っ暗なクリスマスイブを過ごしました。おそらくこの学院始まって以来の特別な夜となりました。

 今年は数々のことが思う通りにならない経験をしました。そして、当たり前と思っていたことが当たり前でないことを深く実感しました。クリスマスウィッシングも、初等科、中等科、高等科それぞれ「今できることを一生懸命に」のスピリットで、例年とは異なる祝い方となりました。保護者の方々にごらんいただくことができなかったり、〇年生のウィッシングには〇〇をしたい、と思い描いていたことができなかったりしたことは残念なことでしたが、児童・生徒が自分たちのものとしてウィッシングを行い、期せずしてウィッシングの原点に立ち帰ることができました。目に見えることではなく、目に見えないものへとより深く招かれる、これが今年ならではのクリスマスウィッシングの意味であり、大きな成果でした。

 クリスマスと言えば、楽しく、喜ばしいもの。しかし、このコロナウイルス流行の最中に、クリスマスの喜びや楽しさとはどのようなことなのでしょうか。私たちの心には今後に対する不安や感染流行拡大に対する心配が満ちています。その中でクリスマスを祝うことはどのような意味があるのでしょうか。イエスの誕生が私たちの生活にどのような意味があるのでしょうか。

 聖書のイエスの誕生の物語では、イエスの生まれた環境は決して生やさしいものではありません。身重の母マリアを伴って、父ヨゼフは住民登録のために自分の父祖の町へと旅をしなければなりませんでした。イエスは世の中の大きな動きの中に巻き込まれています。そして、泊まる場所がなく飼い葉桶に寝かせられたとあります。そこからイエスは馬小屋で生まれたと設定されますが、クリスマスカードなどに描かれるように動物に囲まれた温かな情景であったのかどうか、むしろ、決して望ましくない、厳しい環境の中で生まれなければならなかったということでしょう。イエスが生まれてきた現実はとても厳しい状況です。ちょうどコロナウイルスに苦しむ今年の世界のようです。

 イエスの誕生に出遭った羊飼いや東の国の占星術の学者たちは、天使のお告げや星の出現を見て、イエスを探した人々です。多くの人がイエスの誕生には気づきませんでしたが、熱心に探したこれらの人たちがイエスに出遭うことができました。暗い世の中で、天使が煌めいた一瞬の明るさを信じ、遠くに見える星の瞬きを信じた人々がイエスを捜し当てることができました。きっと私たちも同じです。目に見える世界の中で、そこにある不安や心配に心の目を曇らされずに、あるいはきらびやかな目を惹くものに流されずに、私たちも目に見えない神の恵みを探しに行かなくてはなりません。

 一体どこに?接触が制限されている中でのほんのちょっとした人との関わりに、残念ながらがまんした思いを誰かと共有する中に、人の親切や思いやり、正直な言葉、感謝や謝罪の中に、悲しみ、弱さ、苦しみの中に、私たちは耳を傾け、心に響くものを探しにいかなくてはなりません。いつもなら見過ごしていた心の中の声を探しにいかなくてはなりません。そこにほんとうの喜びや楽しみがひそんでいるでしょう。目に見えない世界へと目が開かれるとき、幼子イエスの姿を私たちはきっと見つけるでしょう。そして、見つけたら、知らせなくてはなりません。「神様が私たちと共にいてくださる!」

 皆さまに神様の恵みをお祈りいたします。誕生された幼子イエスが、皆さまが日々の生活に見いだされますように。神様が共にいてくださると感じる日々となりますように。

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