校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

12月8日 高等科ゆりの行列「捧げる」

2020.12.12

 今年度のゆりの行列はソーシャルディスタンスを考慮し、5年生以上は、5年生・6年生、中等科、高等科の3回に分けてソフィアバラホールで行いました。聖堂で行ってきた例年とは異なり、改装成ったソフィアバラホールの明るさが希望と清楚な美しさを印象づけるものとなりました。生徒への話は学年の段階を追って、少しずつ深く考えてもらうことを目指しました。「捧げる」は日常的に使う言葉ではありませんが、ゆりの行列には重要な姿勢であり、生徒たちの日々の祈りにも含まれているものです。その意味を考えました。

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 ゆりの行列は12月8日無原罪の聖マリアの祝日のお祝いです。「無原罪」とはマリアの特別な恵みであり、この祝日はマリアの罪の可能性もない清らかな心を祝います。すっきりとして美しい白いゆりの花はそのシンボルです。この祝日を聖心の学校では特別に大事に祝います。その理由は聖心の校章の元のデザインにあります。以前の校章はゆりの花に囲まれて、イエスのみこころとそれに寄り添うマリアの心の2つが描かれていました。イエスは人々のため、人間全体のために苦しむことを引き受けました。それがイエスの十字架の意味です。そして、マリアはイエスの母として歩むことを引き受けました。マリアの心はイエスと共に生きる心であり、そのマリアの心はイエスのみこころの次に私たちが見倣うべきものなのです。

 ゆりの行列には二つのポイントがあります。一つ目はマリアの心の美しさ・清さの特徴は何かということです。もう一つは「捧げる」ということです。

 まず一つ目から考えてみましょう。この祝日の聖書の朗読では、天使がマリアに向かって「主はあなたと共にいてくださる」と告げます(ルカによる福音書2章)。マリアはこのことばの意味を本当に知っていた人です。教皇フランシスコはマリアに向けて祈ることについてこのように語っています。マリアは自分勝手に人生を生きることなく、自分の考えだけにとらわれることがありませんでした。神と共に生きる方でした。天使からお告げを受けて、もしそれを受け入れれば困難が予測できたにもかかわらず、恐れに動かされない心をもって、神がどのような状況でもいつも共にいてくださると考えることができました。マリアは神と共に生きる人です。

 皆さんは宗教の授業で、聖書を学び、イエスの教えを学んで、イエスの教えは人間として大切なことだと感じながら、それにもかかわらず実現しないのはなぜだろう?なぜ、今の世の中にもたくさんの矛盾があるのか、そのように思ったことはないでしょうか。聖書の中でも弟子を始め、人々はなかなか実行できていません。人の心の弱さというものがあるでしょう。無理だと思ってしまったり、そこまでしなくてもと考えてしまったり、大切なことだと良くわかっていることでも実行できないことがあります。私は神様ではないから、という言い訳をするかもしれません。実行しようしたらきっとすごく大変だと考えたり、勇気がなく、どうなるかわからないと感じて、踏み出せなかったりするかもしれません。神が望まれていることは、私たちがためらってしまうほどに、想像もできない新しいことであり、信じることが難しいくらいとてもすばらしいことなのかもしれません。

 マリアは神様が共にいてくださる、だから大丈夫。私の力ではできないことでも、神様が共にいてくださるから、できないことはない、このように考えたでしょう。マリアの心の清らかさは、このような勇気をもたらします。このマリアの心の姿勢こそ、私たちが深く知りたいことであり、祈りたいことです。神様はいつも共にいてくださると深く信じること、これがマリアの心の清さではないでしょうか。神と共にいるによって新しいこと、本当に良いことが始まる、開けてくる、そのように信じることです。

 私たちはとても大事なこと、やるべきことに直面することがあります。そのときに、それがどれほど大変そうでも、実行する勇気をもちたいと思います。このことをまずマリア様に祈りましょう。

 「捧げる」という二つ目のことについて考えてみましょう。「捧げる」という言葉を日常生活ではあまり使いません。捧げるとは、誰かのものとしていただくために差し出すことで、敬意・へりくだりの心をもって行う、改まったことです。1年の行事の中で考えてみると、「捧げる」機会は3回あります。5月の聖母戴冠式でマリアに花の冠を捧げます。クリスマスウィッシングでは、3人の東方の博士たちが生まれたばかりのイエスに宝物を捧げます。そして、私たちもプラクティスの捧げ物をします。そして、このゆりの行列では自分の心をマリアに捧げます。このような3つの大きな行事のときに私たちは捧げる行為をしています。しかし、実は毎日、朝の奉献の祈りの中で、私たちは「今日一日の祈りと働き、苦しみと喜びを捧げます」と言って祈っています。捧げることは私たちの日常なのです。「私の心のゆりをお捧げする」ということは、自分を差し出す、自分を神様のものとして、神様に喜んでいただくことです。私たちが「捧げる」と祈って日々を過ごしてきていることを思い起こしながら、捧げる意味を今回は深めたいと思います。

 ゆりの行列では自分自身をマリアに捧げます。マリアに倣う者として、マリアに喜んでいただけるように自分を捧げます。喜んでいただける者となっていけるように祈りましょう。「捧げる」という言葉を祈りの中で唱えるとき、マリアに真剣に倣いたいと言う気持ちで祈りましょう。来年のゆりの行列まで、ゆりの花をどこかできっと見ることがあるでしょう。そのときには、マリアの心に今回祈ったことを思い出し、そのたびに心新たになってほしいと願っています。

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