校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

10月31日中高等科朝礼 ハロウィンに問われるもの

2023.10.31

 ハロウィンは日本でも一つの季節の行事として多くの人が楽しむようになりました。そこで、その意味合いを生徒と共に考えることにしました。仮装して楽しむあの「お化け」たちは何者なのでしょうか。生徒たちによる朝礼の祈りでは、自分で判断することの大切さを祈っていました。呼応する響きに思いを込めて話しました。

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 10月31日はハロウィンです。日本でも仮装して祝う人が増えてきました。その意味を考えてみることにします。

 カトリック教会では11月は死者の月で、11月1日を「諸聖人の祝日」、2日を「死者の日」として祈りを捧げます。「諸聖人の祝日」というと少しわかりづらいですが、英語では"All Saints' Day"、つまり、全ての聖人の日です。聖マグダレナ・ソフィアも聖フィリピン・デュシェーンもこの祝日に含まれます。そして、2日を「死者の日」とすれば、あらゆる方が含まれることになるので、その前の10月31日はそこに入らない存在、いわゆる「お化けの日」ということになります。ハロウィンは、今は楽しみの日となっていますが、このお化けたちは、もともとは、楽しみとして笑ってしまわなければ怖すぎる存在だったということもできるかもしれません。

 27日の球技大会の閉会式の祈りにもあったように、私たちはこれからクリスマスに向かって進みます。イエスの誕生という、新しいいのちの生まれる時です。クリスマスを待つ季節は、教会の暦では新しい年の始めにあたります。

 それを迎える前に、まず、教会では死者の月に亡くなられた方々を思い起こすとともに、死について、この世の終わりについて、教会の一年の暦の最後の月として、思いを深めることに取り組みます。ミサで読まれる福音書の箇所も、イエスがこの世の終わりについて語っているエピソードになります。終わりという意味の「終末」について考える季節です。

 この時期の朗読箇所で、イエスは一人ひとりが自分の考えを問われるということを話します。何人かの人がいても、家族であっても、この世の終わりの時には、神様の前で自分の考え、自分の判断が問われるということです。これはとても大事なことだと最近改めて感じるようになりました。

 ガザで、イスラエルとパレスチナの軍事衝突が激化して多数の人々が亡くなっています。とても痛ましいことです。イエスの生まれた地方でこのような争いが止まないことはとても痛ましく、神様は何を見ていらっしゃるのかと問いかけたくなります。

 旧約聖書を見ても、イスラエルが他の部族と戦争を行った話が実はたくさんあります。イスラエルが勝てば、神様が共にいてくださったと喜び、イスラエルが窮地に立てば、神様に助けを祈っています。神様は戦争を肯定されるのか、神様とは結局どのような方なのか、疑問が深まります。

 そこで、この頃このようなことを私は考えています。戦争は部族や国や集団や共同体同士の争いの一つの形です。そして、それぞれの集団は一人ひとりの人間から成り立っています。パレスチナの人にもイスラエルの人にも一人ひとりそれぞれ家族があり、守りたい大切な人がいます。いのちが大切だという共通の思いがあります。しかし、個人が国や集団に属していると、相手を敵としか見ることができなくなり、いのちを大切にしたいという自分の考えをもっていても、自分の考えだけでは動けなくなります。

 イエスが個人の判断が問われる話をしていると先にあげましたが、イエスの十字架は、イエス自身が一人で十字架に向かっていくという、究極の個人の選択だったのではないかと思われてきました。

 ガザの人々は、一人の人としてそれぞれが異なる立場にあって、苦しい選択に迫られているでしょう。何を選択するのか、問われています。そして、日本に住む私たちも状況は異なりながらも、選択を問われていることは同じです。何を大切にしたいのか、自分で考える。自分で選ぶ。何を選び、何を捨てるのか問われます。聖マグダレナ・ソフィアなら、イエスと共に選び、イエスと共に捨てると言うでしょう。

 ハロウィンのお化けはイエスの教えにそぐわない存在とも言えるでしょう。そうだとしたら、ハロウィンの一番怖いお化けは、戦争や力による戦いを選んでしまうお化けかもしれません。今回のハロウィンでは、そのようなお化けを捨てて、笑い飛ばして、乗り越えていきたいものです。そのようなハロウィンでありたいと私は願います。

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