校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

6月5日おもしろい本を読みましょう(72) 曽野綾子 「哀歌」

2020.06.05

 今日の本もサードステージの皆さんにいつか読んでほしい本として紹介します。

 数年前にある司祭が亡くなられ、お人柄を偲んで多くの人が葬儀ミサに集まりました。その場でのことだったかと記憶していますが、この神父様と出会った人は誰もが自分が一番大切にされていたと感じていたと、どなたかが話されました。これを聞いた人のほぼ全員が同感だったようでした。それくらいこの神父様は一人ひとりを大切にされる方でした。昨日紹介した須賀敦子さんも同じような温かく広い心を持った方で、非常に多くの方が、私と同じく、須賀先生には本当に大切にしていただいたと感じていると思います。世の中には、まったく平然と楽々と大きなものを生きて、まわりの人を静かに感化している方々の存在があります。

 友人である聖心会のフランス人シスターの一人にも、驚かされたことがあります。初めの出会いはフィリピンでのことでした。大らかで親しみ深く、何か力を感じさせる人でしたが、お互いまだ研修中の身で実績のない段階でした。数年後にパリで再会しました。なつかしい思いで色々話をしているうちにお互いの仕事の話になり、写真を見せてくれました。カトリック系の団体に属し、国際協力や平和に関する仕事をしているとい聞いていましたが、1枚の写真を見て、私は絶句してしまいました。それはどこかの現場で、多くの人が亡くなっている場面だったからです。私が驚きながら「これはどこ?どうしたの?あなたがなぜこの写真を持っているの?」と尋ねると、それはアフリカで、教会に集まった人々が惨殺された場面で、そのシスターは自分がそこでこの写真を撮ったと言うのです。「本当にそこに行ったの?」と私は聞き返してしまいました。彼女は「そう」と答えました。その後どのような話を聞いたのかあまり記憶にありません。私の驚きが大きかったのか、語学力が乏しく理解できなかったかどちらかでしょう。しかし、明確に分かったことは、淡々としているこのシスターが想像を絶するような場を生きてきたということでした。

 「哀歌」とは、旧約聖書に含まれる一つの書で、一般に預言書のエレミヤ書と一括りにとらえられます。イスラエルの人々が国を失い、深い困難を生きているときの、神に向けての嘆きの書です。第一から第五の「歌」で構成されているので「哀歌」とされているのでしょう。英語のタイトルは Lamentations です。ここに描かれている状況は悲惨極まりありません。しかし、そのさ中でも「主よ」と呼びかけ、神は決して見捨てる方ではないと思い起こし、「わたしは主を待ち望む。主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。」と語ります。「主に望みをおく」とは「希望をもつ」ということです。この語り手は希望を作りだそうと試みています。

 「哀歌」の主人公、鳥養春菜は修道女としてアフリカのある国に派遣されています。その国ではフツとツチという2つの部族が存在し、両部族の間には恐ろしく深い対立が生まれ、虐殺という事態へと発展していきます。春菜は修道院のシスターたちと教会で働くうちに、恐ろしい殺戮の場面を目撃し、深刻な状況に巻き込まれ、自分自身もレイプされるという悲劇に遭遇します。そして、国外へ脱出したところで、日本人に出会います。大使館の人々と田中一誠という一人の男性でした。

 春菜は取り立てて優れた人物としては描かれていません。しかし、一人の女性として、人々と誠実に関わろうとする真面目な人物です。その春菜に課された運命は非常に重いものですが、それを特に誰に注目されるのでもなく、ただ自分の生きるべきものと受け止めて静かに生きて行きます。帰国後の春菜は、アフリカでの経験があまりにも重いものであったので、それを分かち合える人を修道院に見つけることができませんでした。家族の想像も超えています。ただ唯一深い理解を示してくれたのは一誠でした。春菜の身に何が起こったか、それを春菜がどれほど悩みながらも誠実に生きようとしたか、読み進めてほしいと思います。

 旧約聖書の哀歌のことばに、春菜は一度アフリカの修道院の黙想会で接する機会がありました。まだその後の混乱の深刻さをあまり予感もしていない頃で、哀歌に出てくる情景の悲惨さに驚いたのでした。その時、指導者の司祭は「苦しみを耐え忍びながら、黙して静かに、神さまの救いを待つ」姿勢が哀歌の作者にはあると語り、春菜はこの言葉に何か深く心を動かされたのでした。春菜の苦難はこの後にやってきます。そして、春菜はもう一度思いがけないところで哀歌の言葉に出遭います。

 帰国後の春菜は身の危険から逃れられたと言っても、決して簡単に平和な心で暮らせる訳ではありませんでした。遠いアフリカの国で起こっていることを理解することができない人々に囲まれながら、自分の身に負っていることを一人で背負っていかなくてはなりません。それは神から託されたことであって、他人に預けることはできず、逃れることはできないと春菜は感じとるのです。春菜が神を信じる人だからです。逃れたいという思いが生じないわけではありません。その深い苦しみを一誠は感じ取り、哀歌の言葉を春菜に示します。「わたしの魂は平和を失い 幸福を忘れた。わたしは言う『私の生きる力は絶えた ただ主を待ち望もう』と」という言葉でした。一誠は深い苦しみの中でも希望を見いだす言葉を春菜に伝えたのです。

 人間社会には、悲惨な出来事、人間の悪や憎しみなど、なぜこのようなことがあるのかと問いたくなることがらが数多く生じます。信仰がなければ悪という現実を見据えることはむずかしいのではないかと感じることがあります。この作品は主人公が修道女という設定により、信仰という枠組みをもって悲惨な現実に取り組んでいます。アフリカのルワンダで起こったツチ族とフツ族の対立が、大虐殺という悲劇となったのは1994年でした。

 春菜は一誠を心から頼りにしますが、二人の人生は異なる道筋をたどります。結末のシーンは、有楽町駅から品川駅までの山手線と京浜東北線が並んで走るところに置かれています。2つの異なる路線がこれらの駅間だけ併走して、また2つに分かれていきます。2人の人生が交わらないことを印象深く描く場面です。生きるとはどのようなことなのか深く考えさせられます。

 神様は一人ひとりに目を注がれ、人は手探りで模索しながらいのちを生きていきます。COVID-19の危機を生きる私たちにも、哀歌の言葉は響きます。どのような時にも望みを神におくこと。

曽野綾子 「哀歌 上下」 毎日新聞社 2005年  新潮文庫 2006年 

現在は残念ながら出版されていません。中高図書館にあります。

 

 

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