校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

11月第5週朝礼 真実を語る人になる             フランシスコ教皇の来日を受けて

2019.11.29

 フランシスコ教皇は日本にわずか数日滞在されただけでしたが、各地で様々な人に出会われて、心に残る言葉を語られ、日本全体に大きなインパクトを残して行かれました。児童・生徒と共に、フランシスコ教皇が語られたことを振り返って考えました。

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 日本を訪問されたフランシスコ教皇には日本中の多くの人が注目していました。その姿に接し、心に残ることが3つありました。人々と出会われるときの温かさに満ち、人を惹きつける笑顔。真剣な祈りの姿。そして、特に、語られる言葉にあふれる真実さにはとても心打たれるものがありました。来日前から新聞やテレビがどのような発言をされるか関心をもって報道していました。そのことを考えてみると、fakeと言われる言葉があふれる世の中で、本当のことを語ってくれる人物を日本は期待して待っていたのではないかと思わされました。

 今回のいくつものスピーチの中から、長崎でのミサの説教を振り返ってみましょう。当日のミサの福音朗読はルカによる福音書23章からイエスが十字架上で亡くなる場面がとられ、説教では特に42節「イエスよ、あなたのみ国のおいでになるときには、わたしを思い出してください」が取り上げられました。そして、この場面に3種類の人々がいたという説明は訴えるものがありました。その3種類の人々のうち1番目はイエスの姿を見て、たとえ何かを感じていたとしても、口を閉ざして沈黙を守っていた多くの人々です。2番目はイエスの姿を見ても、まっすぐに真実を見ることができず、あざけったり、ばかにしたりした人々です。そして3番目はイエスの姿をまっすぐに見て、イエスに真実を認め、声をかけた人でしたが、この人はイエスのとなりで十字架にかけられていた罪人でした。教皇は、沈黙を破ったこの人の発言の重要さを挙げています。この3者の対比はとても考えさせられるものです。この最後の人は、自分の弱さや貧しさを認めることのできた人でもあったでしょう。イエスが一番喜ばれたのはこの最後の人です。そして、イエスは人の過去ではなく、今の姿、神に向かおうとする今の姿を受け止めてくださる方です。

 私たちはこの学校で沈黙を大切にしています。特に、クリスマスに向かう今、イエスの誕生を迎える準備として、沈黙の静けさの中で心を整えることを大切にしています。これは良い沈黙です。良い沈黙は心に静けさをもたらすもので、これがないと私たちは大事なことを聞き取ることができません。一方、良くない沈黙もあります。それは、大事なことを感じたり、わかっているつもりでも、それを言葉にして発することをしない、そのような沈黙です。私たちはこれら2つの沈黙を区別しなければなりません。良いことを聞き、望ましいことに出会い、良いと感じたら、良いことは良いと表明する。そして、良くないことを耳にし、悪いことと感じたら、それは良くないと言葉にし、悪い沈黙に陥らないようにする。このことを実行していかなければなりません。

 フランシスコ教皇が私たちに色々なことを語ってくださったことで、私たちは宿題をたくさんいただいたようなものです。語られた言葉をどのように生きていきますか、と私たちは問われています。良い言葉、よいメッセージを受け取って、それらを自分たちでも言葉にし、活かしていくことができるかどうか、という問いが私たち一人一人に託されています。

 

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