校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

7月31日 中高等科 夏休み前7月のつどい

2020.08.01

 中高等科も夏休み前の最終日を迎えました。今年度は新型コロナウィルス流行による臨時休校があったため、夏休みの開始が遅くなりました。今日の午前中まで授業を続け、午後に夏休み前のつどいを設けました。今回は各教室にZoom配信となり、生徒会の司会で始まりました。校長からの話の後には生徒たちによる連絡事項が続きました。初めてのことにどの生徒も緊張した面持ちでしたが、しっかりと話をすることができました。新しいことに満ちたこの春からの学校生活は、最後まで新しい経験で締めくくることになりました。

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 皆さんこんにちは。明日から夏休みとなります。7月末になりましたが梅雨明けもまだで、涼しいままですので、不思議な気持ちがします。皆さんはどうでしょうか?

 新型コロナウイルス流行のために異例なこと続きの4月からの学校生活でしたが、今日まで皆でがんばってくることができました。6月に登校を再開してから、今日まで学校生活を続けることができたことを、まず、神さまに感謝しましょう。

 私たちは今年度「Being artisans of hope. 希望の作り手になる」を目標としています。これをどのように実行することができたでしょうか。どんな希望を見つけましたか?

 皆さんはこの4月からずっと、本当によくがんばってきたと思います。新型コロナウイルスの流行という未知の状況の中で、様々な新しいことにチャレンジしました。世界全体の人々が自宅で過ごす日々を送ることなど、想像もつかないことでした。その状況の中で、オンライン授業もとにかく進めなければなりませんでした。先生達にも未経験のことでしたが、4月に新学年が始まるときに、とにかく皆さんの学校生活をスタートさせることを考えました。そして、皆さんも初めてのことに一生懸命に努力して応えてくれました。Zoomで皆さんが繋がってきたときには、一種不思議な喜びを感じました。皆さんはどうだったでしょうか。

 6月第2週に学校生活が始まったときには一体どのようになるかと心配もしましたが、皆さんの元気な姿を見て、本当にうれしかったことを記憶しています。3月から休校になりましたから、3ヶ月ぶりに皆さんが学校に帰ってきて、学校に活気がもどりました。それ以来、新型コロナウイルスに緊張しながらも、生きて行く実感を少しずつ身につけてきたように思います。

 皆さんにとって、この4月からの生活はどのような意味があったでしょうか。

 例年なら学校で行っていたことで、実施できなかったこともたくさんあります。行事やクラブ、委員会の活動などは本当に制限されてしまいました。残念なことです。しかし、この時期に感じたり、考えたり、体験したりした特別なこともたくさんあったはずです。それを忘れないようにしておきましょう。これまでにないクリエイティブなものが生まれてくることを期待しています。 

 教皇フランシスコは、この新型コロナウイルスの危機に際して、世界全体の人々を励ます発言をしています。特に弱い立場の人々に目を向けながら、今私たちが問われていることは何かと、私たちが大事なことを見逃さずに気づくように呼びかけています。地球全体のいのちの一員として人間に求められていること、世界の一員として私たちに求められていることは何でしょうか。

 私は最近とても考えさせられる2冊の本に出会いました。取り上げられている二人の人物は19世紀に生きた医療者で、一方は男性、もう一方は女性です。玉城英彦著「手洗いの疫学とゼンメルワイスの闘い」(人間と歴史社2017年)と朝倉幹晴著「ナイチンゲール生誕200ーその執念と夢ー」(暗黒通信団2020年)です。

 1冊目の本はある意味では怖い本でした。今回新型コロナウイルス対策で、手を洗うことは、3密を避けること、マスクを着用することなどと共に重要なこととされています。しかし、手を洗うことの重要さに医学が本当に気づいたのは、たったの160年から170年前のことで、聖マグダレナ・ソフィアの生きている時代のことだったということをこの本によって知りました。ゼンメルワイスというドクターが19世紀の半ばごろ、オーストリアのウイーンにある大きな病院の産科で働いていました。たくさんの若い女性がそこで出産しました。そこは大きな病院だったので病棟が二つあり、一つの病棟では、多くの女性が出産した後に病気で亡くなりました。しかし、もう一方の病棟では、亡くなる女性の数は多くはなく、人々はその数の違いだけは分かっていましたが、原因は分かりませんでした。亡くなる女性の数の少ない病棟は女性の助産師が担当し、もう一方の死亡率の高い病棟は男性の医師たちが担当していました。しかし、死亡者数の差は担当者が女性・男性という違いが原因ではありませんでした。ゼンメルワイスは自分が男性医師として担当している病棟で多くの女性が亡くなること心を痛めて、どうしても原因を突き止めようと、あらゆることに注意を払い、調べ始めました。二つの病棟における一つ一つの事柄の違い、過去のデータ、新たな取り組みをした後の結果の変化など、あらゆることを調べていき、たどりついたことは、手を洗うことの重要性だったのです。

 19世紀の中頃はまだ医学の発達の道のりにおいて、病気の原因としての細菌が発見されていません。細菌が病気の原因だと解明されていくのは1860年代以降です。北里研究所を創立した北里柴三郎の先生となったコッホが結核菌やコレラ菌を発見したことも大きな業績でした。ゼンメルワイスはこの病原菌である細菌が発見される直前の時期に生きた人で、当時は、病気は何らかの身体の状況が引き起こすものと考えられていました。そのために、病気の原因を突き止めるための一つの有効な手段として、病気で亡くなった人の遺体を解剖して、病気について学ぶということがありました。

 ゼンメルワイスの働いていた病院では、若いドクターは遺体を解剖して病気の理解に努めると同時に、産科病棟で女性たちを診察し、出産に立ち会うという二つの大きな仕事をしていました。両方とも大変な仕事です。解剖の仕事をして、すぐに女性の診察に向かうということもしばしばあったそうですが、その時代の医師たちは細菌の存在をまだ知らないので、ばい菌という考え方がありません。今と衛生の観念が異なります。ゼンメルワイスが気づいたことは、ドクターたちは手をしっかり洗わずに診察したり、出産に立ち会ったりして、そのために多くの女性たちが病気に感染し、命を失っているのではないかということでした。もう一方の病棟の助産師たちは、遺体の解剖には携わっていませんでした。これが一つの決定的な違いでした。ゼンメルワイスはこのことを解明するために、大変な調査をしました。しかし、ゼンメルワイス以外の人々は、誰もそのことに気づきませんでした。なぜなら、自分の考えにとらわれて、そこにある事実をしっかり観察したり、データを比較したりして、細かく調べるということをしなかったからです。ゼンメルワイスがドクターたちに手を洗うように呼びかけたところ、病気に感染する女性の数は減少しました。しかし、手を洗うことは面倒なことでもあったし、人々はなかなか意味を理解しなかったので、ゼンメルワイスは信じてもらうことができず、病院の改善は遅れてしまいました。彼の死後だいぶたってから、彼の仕事の重要性がやっと認められるようになったということです。

 手を洗うこと、これは今回の新型コロナウイルスの感染流行対策で重視されています。皆さんも手を洗うことにはとても気をつけていると思います。しかし、このことが本当に人に理解されるためには時間がかかったし、このことを知らなかったために多くの命が失われたということに非常に驚かされました。

 日本では、きれいな水が豊かにあります。だからでしょうか、手を洗うということは当然のことと私はどこかで思っていましたが、歴史上ではそんなに簡単なことではなかったのです。手を洗うことの重要性は、高い犠牲を払い、綿密な観察や考察の結果として、やっと分かってきたことだったということは、本当に意味深いと感じています。

 もう一方の人物はナイチンゲールです。ナイチンゲールについては、看護学を確立した女性として、病棟でランプを持って入院患者を見回る女性として、皆さんも知っていることと思います。ナイチンゲールは、事実の厳しい観察とデータ化、統計的な処理の方法を用いての検討を行って、病院の環境を改善する方法を確立するという大きな仕事をしています。温かく病人を見守るという心情的なものだけではない、冷静で客観的な理論家でした。漠然とした印象論で動いたり、男性の指示に従うだけでなく、自分の主体的な判断をもって、何を変化させたら何が改善された、という因果関係を明確につかんで、衛生状態を改善していきました。非常に理論的なものの考え方をして、専門的な看護の確立に努めました。

 私たちは、この二人のような人々の業績の恩恵に与りながら、現代の最新の医学・科学の働きによって、未知の存在であった新型コロナウイルスについて新たなことを次々と知ることができ、さらに研究が進められてワクチンや治療薬が完成されることを待っています。手を洗うことを、まず、おろそかにせず、しっかり行っていきたいと思います。それは、感染症を予防する明確な手立てです。そして、今言われている3密を避ける、マスクの着用も、専門家から指示されていることは、明確な理由があってのことです。それを理解して、しっかりと実行したいと改めて思いました。

 今、私たちは新しい状況におかれて、今まで当然と思っていたこともひっくり返されるような経験をしています。その中で、大事なことを見つけるためには、しっかりとものを見て、よく観察すること、思い込みやあいまいな情報に流されないこと、気持ちだけで動かないことがとても大切なのだと思います。

 自分の見たこと、自分の経験したこと、自分の感じたことを大切にすること。同時にそれだけにとどまらず、曖昧ではなく、確かな情報を学ぼうとすること、自分で考えることを大切にすることも重要です。すぐわからなくても、諦めないこと、簡単に片づけないことも大切です。

 そうした中で、きっと希望を見つけることができます。そのようにしてみつけた希望は確かな希望で、皆さんと周りの人をしっかりと導く力があります。

 今日、朗読された聖書の箇所、ローマの信徒への手紙5章では、希望はイエスによってもたらされるものとされています。そして、たとえ苦しいことがあっても、それを通して、磨き抜かれたものとして希望がもたらされるとしています。だから、神さまと共にあるこの希望は裏切ることなく必ず実現していくのです。

 教皇フランシスコは希望について、「一人ぼっちで希望を持ち続けることはできません。希望を持ち続けるには、支え合う共同体が必要なのです。」とも言っています。明日から私たちは夏休みに入り、しばらく学校から離れますが、その時にも仲間である友だちの存在、学校を、皆さんの支えとして心においてください。一緒に共有する仲間がいるからこそ、私たちは希望を見失わずに歩み続けられます。私たちは聖心の学校として、イエスのみこころに向けて、一人ひとりを大切にして、地球全体のいのちを大切にするという思いを共有する共同体です。みなさん一人ひとりは本当に大切なメンバーです。

 明日からの日々、どうぞ健康に気をつけて過ごしてください。例年より本当に短い夏休みですから、一日一日が貴重です。良い日々としてください。私たちは4月からずっと走り続けてきたようなものです。休養をしっかりとることも大切です。遠くに旅行をすることも、自由に行動することもままならないお休みですが、皆さんが楽しむことができるように願っています。東京の状況はとても心配です。皆さんも慎重に賢明に行動してください。皆さんとご家族が健康であることを心から願っています。そして、8月後半から安心して活動できる状況になることを願いましょう。

 どうぞよい夏休みを過ごしてください。

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