校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

無原罪の聖マリアの祝日  ゆりの行列

2019.12.16

12月8日はカトリック教会では無原罪の聖マリアの祝日です。今年は日曜日にあたり、教会では翌日の9日が祝日とされました。マリアの心の美しさを称えるこの日を私たちはステージごとにゆりの行列を行って祝いました。それぞれ静けさの中でマリアにゆりの花を捧げました。11月末に来日されたフランシスコ教皇もこの祝日にはローマでの行事に参加され、祈りを捧げられています。このフランシスコ教皇の祈りからも学びながら、児童・生徒と共にマリアの心の美しさについて考えました。

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無原罪の聖マリアの祝日には、マリアがイエスの母として特別な存在であること、罪の可能性からも守られ、生まれる時から神の恵みを受けていることを記念して祝います。聖マリアの無原罪の教えはカトリック教会の中で、19世紀半ばになってから定まったことです。マリアについて長い間人々が大切にしてきたこと、イエスの母としてマリアを尊敬し続けてきたことが、無原罪の聖マリアという教会の教えとなって公式に定められたのがこの時でした。このような動きには、時代の変化の中で、受け継いできたことを明確にしたいという動きがあったのではないかということが考えられます。19世紀は社会の変化が大きい時代でした。科学や技術が発達し、人々の生活が変化し、新しい考え方が生まれ、伝統に対する疑いの動きもあったかもしれません。その中でも変わることのない大切なことがらをより一層明確に、時代に即した形で表現することが求められたのではないでしょうか。それが聖マリアの無原罪という教えになったと考えられます。

 教会は長い歴史の中で教えや教義を新たにしてきています。最近の例としてフランシスコ教皇の発言を考えてみることができるでしょう。教皇は日本滞在中に長崎・広島を訪問し、原爆について発言され、原子爆弾を使用すること、保有することは倫理に反するとされました。そして、その後に、このことを教会の教えに正式に新たに加えるともしています。これは、社会の新しい現実に合わせて、教会の教えの内容も深化していくということの一つの例だと考えることができます。

 無原罪の聖マリアの祝日の意味はどのようなことでしょうか。12月8日の祝日には、ローマでもお祝いの祈りがあり、フランシスコ教皇も参列されました。教皇庁やバチカンニュースのサイトに写真記事や映像を見ることができます。「感ずべき御母」の絵があるトリニタの元聖心の修道院はスペイン広場の上に位置していますが、その有名な階段をトリニタから降りたところのスペイン広場の先に、無原罪の聖マリアの像があります。このマリア像の前で、無原罪の聖マリアへの祈りが行われました。この像は高い円柱の上に立っていて、マリア様は片手に花輪を下げています。この花輪を毎年この祝日に新しいものに取り替えることになっていますが、消防士がハシゴ車に乗って円柱上のマリアのところまで上がり、作業をすることが慣例になっているそうです。それほど高いところに立っているマリア像です。トリニタに聖心の学校があったときには、生徒たちもこのような行事にはきっと参列したことでしょう。

 当日は、この像の前に多くの人が集まり、聖歌が歌われ、フランシスコ教皇がマリアへの祈りを捧げられました。とても意味深く、学ぶことの多い祈りでした。この教皇の祈りをたどりながら考えてみましょう。マリアの心は純粋な心です。マリアの清らかさに倣うと言いますが、マリアの心は裏表がない、曇りがない心です。マリアはまっすぐに神を信じた方でした。教皇はそのマリアに向けて、心の弱さを抱えている私たちのために祈ってくださるように願われました。そして、罪人であることと心が曇っていることは違うとされています。罪を犯したとしても、人は心を改めることができます。心が曇っているとは、表向きはいかにも美しく、問題がないかのように装っているものの、内側は悪意や自己中心に満ちている状態のことです。しかし、心が曇っていても、それに気づかないことが多くあります。今の世の中は、心の曇りになれてしまって、平気になってしまっていることが多いのは深刻なことです。心の曇りから解放されなければなりません。そうしないと、心ないことが多々生じ、弱い人や貧しい人が放置されたままになり、いじめという現実も生じています。また、自分もそれに加担していることさえあります。残念ながら、このような現実に多くの人が幻滅したり、落胆したりしています。希望をみつけることができないと感じている人もいます。今の世の中にあふれる罪の大きさを見て、神は何もしてくれないと思っている人もいます。しかし、そのような現実のなか、マリアの心の美しさに眼を向ければ、私たちは癒やされていきます。マリアの心を通して、私たちはイエスを信じることができます。

私たちはマリアに励まされて、マリアの心の美しさ、純粋さに倣うことができます。マリアは罪から免れ、心の曇りのない特別な存在です。しかし、マリアだけが特別であったのではありません。マリアは最初の人であり、私たちも後に続いてマリアのようになることができます。なぜなら、マリアはイエスの母となり、私たちにイエスをもたらしてくださったからです。マリアによってイエスがこの世に来られ、イエスはすべての人のために道を開いてくださいました。イエスは私たちと共に生き、十字架の死と復活によって私たちのために道を開いてくださいました。私たちはイエスと共に生きることができます。ですから、マリアは最初の方ですが、私たちもマリアのようになることができます。この祝日はこのことを思い、マリアに目を向けて希望をもつ機会です。

マリアに励まされて、マリアの心の美しさ、純粋さに倣いましょう。自分から進んで実行していくことが大切です。小さなところから、人々が共に生きるようになったら、世界は変わって行くことができます。私たちが自分の周りから人と共に生きることを実行したら、変化を起こすことができます。マリアは私たちは自分の良さを恥ずかしがることはない、むしろ、自分の弱さを恥ずかしく思いなさいと教えてくださいます。良くない思い、良くない行いからはお互いに遠ざかるように努めたいものです。自分勝手な思いからも遠ざかりましょう。

聖マグダレナ・ソフィアも、マリア様の祝日にいつもより長い祈りをしたり、宗教的な思いを深くしたりしてもそれだけでは不十分です、行動で表しなさい、という言葉を残しています。ゆりの行列では、私たちの心をゆりの花のシンプルな美しさに託して「私たちの心のゆりをお捧げします。いつまでも清く保つことができますよう、お守りください」と祈ります。「お守りください」といっても、「保存」という意味ではありません。この意味は、どのようなことがらに出会っても、どのような状況になっても、いつも私たちの心が清くあるように、曇りがない心でいられるようにということです。  

私たちは、人との関わりの中でどのようにしたら裏表がないようになれるでしょうか。どのようにしたら、自分勝手でなく行動できるでしょうか。どのようにしたら、ずるくならないでいられるでしょうか。このように自分のあり方を日々考え、来年の祝日の日まで実行していきましょう。その恵みをマリアに祈り、実行していくことがこの祝日に求められています。 ゆりの行列.jpg

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