校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

6月第3週 セカンド・サードステージ朝礼 隅に追いやられた人々に仕える  みこころの祝日に向けて

2018.06.19

11日・12日の生徒の朝礼で、高等科生徒会、もゆる会から、6月29日の中高みこころの祝日に向けての発表がありました。初等科は6月22日にみこころの祝日行事を行い、7年生以上は29日にミサで祈りを共にすることになっています。今年は、聖フィリピン・デュシェーンの渡米200年の記念を込めて、ミサの後の時間に特別な活動をする計画を生徒会が立てています。この発表から、聖フィリピン・デュシェーンに倣う生き方を児童・生徒と共に考えました。

生徒会はみこころの祝日の意味を考え、イエスのみこころに倣って奉仕することを呼びかけました。聖フィリピンについての5月の創立者記念日でのシスタードナ・コリンズによる講演から、聖フィリピンが「社会の隅に追いやられた人々に仕えた」ということ、聖フィリピンが「自分の境界を越えた」ように、「私たちが招かれている新たな境界は何か」という問いを引いて、「人のために自分をどう使うか」を各自が考えることを提案しました。

もゆる会は日頃から集めている古切手とベルマークを祝日までに集中的に集めることを提案しました。祝日のミサの中で奉納するということです。古切手は日本キリスト教海外医療協力会へ送り、海外での医療支援に役立て、ベルマークは楽器と交換して、支援が必要な国に送ることにしています。

生徒会の投げかけは意味深いものです。生徒会があげた「社会の隅に追いやられた人々」とはどのような人々のことを指すでしょうか。聖フィリピンにはアメリカ先住民の人々であり、Potawatomi族の人々のことでした。アメリカ先住民は、先祖代々生きてきた土地から追われた人々です。日本の歴史の中では、かつて東北地方や北海道に広く住んでいた蝦夷やアイヌと呼ばれる人々が考えられます。この人々は自分たちの土地を追いやられていった人々でしょう。もし、今の世界に聖フィリピンが生きていたら、難民のことを大切にしたでしょう。難民も自分の土地から離れることを余儀なくされた人々です。また、日本の国内では、東日本大震災での福島第一原子力発電所の事故により自分たちの町や村から避難しなければならなくなり、今も帰還できない人々のことを大切にしたでしょう。この人々も自分たちの土地から追いやられた人々にあたるでしょう。

「隅に追いやられた人々」とは、中心から逸れて、注目されない、忘れられている存在です。私たちの周りには、どのような人々がいるのでしょうか。身近なところでも、気づかれない存在、忘れられている存在、仲間に入れたくないと思っている存在がいるかもしれません。

今、聖フィリピンがここにいたら、誰のために、どのように、自分を使うことを考えたでしょうか。隅に追いやられた人々をどこにみつけるでしょうか。大きな問いです。聖フィリピンはなぜ、アメリカ先住民のところに行こうとしたのでしょうか。6年生は教えの授業でイエスはどのような人々の仲間であったか学んだと聞きました。イエスが仲間としていたのはどのような人々だったのでしょうか。病気の癒やしを求める人、罪人と呼ばれる人々、様々な困難を抱えた人々がいました。聖フィリピンはイエスに学んで、隅に追いやられている人々の仲間になっていったのでしょう。

みこころの祝日の活動で、「人のために自分をどのように使うか」という問いに誠実に向き合ってほしいと願っています。そして、誰のために、どのようなことを生徒一人ひとりが考え、実行に移していこうとするのか期待して見守っています。

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