校長室ブログ - Spirit of "Mikokoro" -

5月第3週の朝礼 開かれた心 マリアの月の初等科プラクティス

2018.05.21

5月の聖母マリアの月に、初等科では聖母マリアの心に倣う「プラクティス」を行っています。「プラクティス」とは心の訓練や練習を意味する、聖心姉妹校に共通した、この語の特別な使い方です。みこころの祝日や、クリスマスという大きなお祝いの前に行います。中高等科でもクリスマスの前に、イエスの誕生という大きな恵みを待つ季節である「待降節」にプラクティスを行います。毎回、その時期にふさわしいテーマを設けて、具体的な実行を試みる努力を重ねます。今回のテーマは「心をひらいて 神様・人・自然」です。

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初等科の子どもたちに、心を開くとはどのようなことを意味するでしょうか。開かれた心について朝礼で考えました。

心が開かれているとき、のびのびとして、心が広げられ、心に入ってくるものも多いことでしょう。「そうなんだ!」とわかったり、「良かった!」気がついたりすることがきっと多くなります。色々なことが耳に入ってくることでしょう。「ちょっとめんどう・・・」と感じることや、「えー?」と言いたくなるような、「~~しましょう」という指示も聞きとることができます。「~~しないようにしましょう」という指示も聞こえて、「やりたかったのに・・」という気持ちを感じることもあるかもしれません。自分の考えと違うことが聞こえてきます。そのときに、やってみたら、「やればできる」「やって良かった」という新しい経験をすることができます。もし、心が開かれていず、もし聞くことができなかったら、自分のことだけになって、新しい、大事なことを聞くことも気づくこともできなくなってしまいます。

心が開かれていず、のびのびしていないとき、本当はやってはいけないとわかっていることをがまんできないこともあるかもしれません。たとえば、時々、下校時に駅で階段やホームを電車に向かって走っている姿を見ることがあります。そのようなとき、「電車に乗りたい!」という自分のことで心がいっぱいになって、心が開かれていません。おしゃべりをしないことになっているときに、ともだちとの話に夢中になってしまうようなときにも、こころが開かれていません。そのようなときは、本当は心の中でわかっていることなのに、心が開いていないので、のびのびと、やるべきことに向かうことができません。

心を開いていくこと、開かれた心になっていくことに、日常の学校での生活の中で、さまざまな場面で取り組むことができます。ちょうど、朝礼の間に、窓の外でウグイスが美しい鳴き声を響かせていました。校庭にウグイスが訪れてくれた恵まれたひとときでした。その鳴き声を耳にしながら、開かれた心を実感することができました。一日の学校生活の終わりに、今日どのような時に心を開くことができたか、あるいはできなかったのかとふり返り、心の歩みを確かめ、心を磨いていきます。

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